楡の木陰で本を読む 俳句の愉しみ 5 TOP HOME
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… 2004年11月28日 …
 咳き込んで伏したる妻の腰光る

 12月の句会の兼題は「咳」。11月の句会では、兼題はみんな苦手のようですねというような話が出たが、僕は逆に自由題が苦手で、いつも兼題からとりかかる。兼題を作る過程で自由題が自然に派生するという仕組みになっている。咳は冬の季語。兼題が季語なのだから作るのは至って簡単である。けれども問題は優れた句を作るという一点なのだ。駄句を何十作ってもしようがないと思う。「咳き込んで紅き顔する妻妖し」は思いつきの句。「咳誘う煙草吸いたる人睨む」、「咳止めの飴を買いたる愛妻家」、「咳ひとつなき会場に着信音」、「咳をして妻に愚痴らる倦怠期」、「咳はなぜ出るかと婆に問う幼児」、「子の咳を案ずる我も熱ありし」、「熱き茶が気管に入り咳き込みし」、「子の咳は我のせいかと自責せり」、「咳き込んでもうおしまいと騒ぐ婆」、「妻の咳気になりつつも熟睡す」、「咳しても煙草吸いたる情けなさ」「病室の窓を開けたら咳き込みし」など、どんどん思いつきの句が出てくる。

 これらの句から適当に選んで句会に臨むのは簡単だが、その前に多少は推敲してみよう。妻妖しの句は、熱があれば顔も赤くなり、意外に妖艶に見えるかも知れないが、咳を続けたぐらいではそんなに赤くはならないのではなかろうか。そこで「咳き込んで紅き顔する赤子かな」としてみた。紅き、赤子と韻を踏んでいるのはよいが、なんだか当たり前のことである。これでは情緒も諧謔もなく、ただの情景描写にすぎない。そこで「咳き込んで床に伏せたる妻妖し」と改良してみた。床に伏せたるが説明調でよくないが、他に思いつく言葉が出ない。想像力は昔から貧困であった。「咳き込んで崩れ伏したる妻哀し」と再改良。哀しという表現がやはり過剰である。崩れ伏しも大げさだ。「咳き込んで伏したる妻の腰丸し」としつこく改良。丸しが説明調である。「咳き込んで伏したる妻の腰の張り」としてみたが。腰の張りという表現が気に入らない。これでは露骨であり安易な表現だ。「咳き込んで伏したる妻の腰光る」としてみた。腰光るは唐突で異様な表現である。抽象的でかつ感覚的な表現でもある。

 人睨むの句は、当節流行の嫌煙権の流れである。このままでは川柳なので、「咳誘う煙草を避けて立ち止まる」とした。これはやや解釈に悩む句。私は、人ごみの都心を歩いていたら近くに煙草を吸いながら歩く人がいて迷惑なので、その人をやり過ごすためにわざと立ち止まったという情景を詠んだつもりだが、他の人がすぐそう解釈できるかどうかは難しいところだ。それにこの句にも情緒などが欠けている。わざわざ俳句にする必要がない情景だ。嫌煙権のテーマは、俳句では難しい。やはり川柳の方に任せるしかないか。「咳やまず煙草も吸えず酒飲まず」はヤケクソの句。「咳やまず紫煙を避けて風浴びし」はどうか。意味がやや不明。紫煙を出しているのが自分なのか他人なのか分からない。「咳やまず紫煙恋しと思へども」と改良したが。

 咳止めの飴は咳飴あるいはのど飴でもよいが、愛妻家ではやはり川柳調である。そこで、「咳飴を買ったけれどもすぐ治り」とした。おやまあ、これでは完璧に川柳である。咳飴で俳句は無理があるのだろうか。そこで「子のために咳飴買った妻と我」とした。風邪を引いて咳が止まらない我が子のために妻と自分が別々に咳飴を買ってきてしまったという句だが、やはり川柳ぽい。困った。「咳飴を買っておくれと婆ねだり」は半ばヤケクソの句。「咳飴の後に煙草の不摂生」と、どうも川柳路線に迷い込んでしまう。咳は人の器官の働きを表現しているので、どうしても静的な情景にはならない。つまり咳という言葉が入ると風雅な雰囲気は醸し出されないのである。咳飴シリーズも苦戦である。

 子の咳を案ずるはどうか。悪くはないと思うが俳句的世界の創造にはほど遠い。そこで「子の咳を案ずる我も熱ありて」と助詞を一つ変えてみた。微調整である。この方がよいとは思うが、我もが気になる。そこで「子の咳を案ずる妻も熱ありし」とした。どうも情景描写の段階である。子と親が同時に熱を出しても、それだけでは情緒はない。諧謔性もない。「子の熱が下がらず恨む隙間風」、「子の咳が止まらず恨む安普請」、「この冬もくしゃみ連発安普請」なども作ったが。いずれも川柳調だ。ちなみにくしゃみは季語ではない。「神棚に手を合わせても咳やまず」もやや川柳調。

 熱き茶はどうか。これも状況描写のみの句。そこで「熱き茶に咳き込みたりし客間かな」とした。知人を訪れて客間に通されたという設定である。気管に入りよりはまともではなかろうか。「熱き茶に咳き込みたりし小学生」ともしてみたが、やはり客間の方がよい。今どきの小学生はお茶は飲まないだろうし。しかしである。客に異常に熱い茶を出す家はあまりない。だから客間の句は変だ。「茶柱に咳き込みたりし二日酔い」。うーむ、また迷走が始まった。「熱き茶に咳き込みたりし地震の夜」はどうか。最近札幌で地震が続いたので。

 着信音は携帯の着信のシグナルであるが、携帯はどうも俳句には似合わない言葉である。「着信音恐縮しごくの講演会」としたら、兼題も季語も消えてしまった。つまり完璧に川柳になった。「咳響き着信音もの講演会」ともしてみたが、俳句の世界とは言えない。「参観日携帯の電源そっと切り」では季語がない。参観日を入学式にすればよいかな。しかし、また川柳の世界になった。「入社式胸の携帯そっと切り」も川柳。「除夜の鐘テレビで聞いても響きよし」は自由題。「除夜の鐘テレビで聞いて寝室へ」と改良。「除夜の鐘テレビで聴いて飲み納め」と再改良。聴いてが説明調。そこで「除夜の鐘テレビを消して飲み納め」としてみた。これだと近くのお寺の鐘の音が聞こえたので観ていたテレビを消し、今年最後の酒を飲みつつしんみりと鐘の音を聴いたという風情になる。実際には、僕の家の近くに鐘を鳴らす寺はないが。しかし除夜の鐘の音のしめやかな感じが伝わらない。

 倦怠期はやや説明調。妻に愚痴らるとダブルイメージになっている。「咳しても妻は小言のやるせなさ」としてみたが、やるせなさが説明過多になっている。それに咳してもの主語が明快でない。「咳をするたびに舌打つ妻憎し」とした。咳をするのは夫の方だが、これではちょっと分かりずらい。でも、やるせなさや倦怠期よりはよいと思う。これでも倦怠期の夫婦の冷めた関係が表されていると思う。憎しが強すぎる感じだが。「咳をする我に舌打ち妻は鬼」と改良したが、妻は鬼と説明してしまったのがよくない形。しかし、どう改良したらよいか分からない。あまりよいテーマではないので諦めるか。亭主が咳をするたびに舌を打つのでは相当な悪妻である。「咳のたび舌打つ妻は冬ソナを」は、冬ソナに夢中な妻が夫の咳をうるさがるという趣向だが、10年もたてば「冬のソナタ」という韓流ドラマのことなど皆忘れてしまうのではなかろうか。

 咳はなぜ出るかはどうか。悪くはないが面白みは薄い。「咳止めて婆に求める幼児かな」としてみたが、よくない。こうしてみると、咳という兼題はなかなか難しい。「咳続く我に見えるは枯れた庭」はどうか。やや俳句調。しかし句会に出せるレベルではない。「咳をして枯れ山水の庭を見る」はどうか。ちょっとこなれていない。もう少しスマートに表現できないものだろうか。これだと「熱おして枯れ山水の庭を見る」でもよいことになる。「病床の我を見守る枯れ木かな」はどうか。兼題が消えたが。いま一つ雅趣に欠ける。「病床の我を励ます枯れ木かな」ともしてみたが。励ますが過剰表現である。「病床の我は枯れ木と語らいぬ」と改良。まあ、別に僕は病床に就いているわけではないが。しかし、今どき自宅で病の床につくことは少ない。病気になれば病院に入院する。それで「病室で我は枯れ木と語らいぬ」と改良した。

 子の咳はも面白くない。「子の咳を止めてやれない情けなさ」と改良。情感薄し。「子の咳を代わってやれないもどかしさ」と改良したが。似たようなものだ。もどかしさと説明してしまったのでは実もふたもない。「子の咳のひとつひとつに不安増し」としてみたが。「子の熱が下がらぬうちは酔いもせず」では季語なし。「子の熱に取り乱したる枯れ木かな」は擬人化路線。しかし、これでは意味不明だ。「咳き込んでむせび泣くよな霧笛かな」は演歌路線。しかしこれでは霧笛が咳き込んでいるような印象を与える。そこで「咳の夜はむせび泣きする霧笛かな」としてみたが、霧笛という言葉が入るとどうしても演歌の歌詞になってしまう。はを抜いて「咳の夜むせび泣きする霧笛かな」と改良。むせび泣きが演歌的なので、これを処理すれば結構よい句ができるかも知れない。「咳の夜霧笛も我もむせび泣き」と改良してみた。我もがくどい。「咳の夜霧笛も沖でむせび泣き」の方がよいのではなかろうか。

 このままでは自由題の方が手薄だ。「ドカ雪やネットは白き壁になり」は12月5日の40cmもの積雪のときに実際に目撃した近所の中学校のグラウンドのネットの光景である。札幌に長年住んでいるが、このような光景はあまり見た記憶がない。5日の雪は湿った重い質だったので、ネットに積もった雪が落ちずに固まったもようである。このネットをインターネットと勘違いする人がいるかも知れない。ドカ雪で停電してインターネットに接続できない状況を詠んだとはさすが、などと変に感心されかねないのではなかろうか。

 中村汀女の句に「咳の子のなぞなぞ遊びきりもなや」というのがある。可憐な情景を詠んだ句で感心するが、圧倒的によいとも思えない。
 「思ふこと多ければ咳しげく出づ」は日野草城という人の句。句会で兼題が咳だったとのこと。佳作か。ちょっと説明調で理屈ぽい句だ。
 「咳止めの空き瓶ころび四月尽」は佐夜子という人の作。季語重なりではなかろうか。空き瓶ころびが面白い表現。
 「父の咳少し遅れて母の咳」は金谷洋次という人の作。なかなか面白い。
 「虫の音の中に咳する寝覚めかな」は内藤丈草という300年前の俳人の句。いかにも俳句ぽい俳句である。情感が豊かだ。
 「咳をしても一人」は尾崎放哉の有名な句。ここまで圧縮すると禅の境地という感じである。これを俳句と認めるかどうかは別として、この句があるおかげで、咳の句はますます作りずらくなる。どうしてもこの句の凝縮の凄さにはかなわない。
 「咳をするちょっと動いた猫の耳」は夏田風子という人の作。瞬間的な機微を詠んだ面白い句である。
 「朝寒し胸の奥から咳一つ」は手毬という人の句。
 「咳すれば揺り椅子ぎこちなく揺るる」は暖流という人の句。手毬さんと同じ句会の同人である。
 「咳ひとつ響きて家は寝静まる」は香世という人の句で、ある句会のサイトに載っていた。


… 2004年11月5日 … 庭枯るるはぐれ雀が枝渡り

 11月の句会の兼題は「人」。これまた難しい兼題である。とにかく季語は冬と決めた。早めに作らないと、忙しくて時間がなくなる。「冬浅し人影まばらな並木道」はとっさに思いついた句。これではどうしようもないわけで、といって他に思いつくものはない。「冬浅し人影まばらな昼下がり」ではどうか。どうも甘い。深みがない。「冬浅し野良犬痩せて餓鬼の道」ではどうか。痩せてという表現がくどいと言われそうだ。「冬浅し野良犬向かう餓鬼の道」とすれば飢えた犬の追い詰められた状況の凄惨さが出ていると思うが。しかし、向かうという言葉が説明調でよくないと批判されるだろう。そこで「冬浅し野良犬今宵餓鬼道へ」と再改良した。でも満足できる句ではない。今宵という言葉がいい加減だ。そこで「冬浅し痩せ犬追われ餓鬼道へ」とした。しかし、これでも満足できない。餓鬼道という言葉がきつすぎる。僕の好みでもない。

 「干柿が好きという人頬蒼し」は苦肉の作。干柿は秋の季語。頬蒼しは意味不明。おやおや残そうとしていた冬浅しが消えてしまった。「干柿を三つ食らって笑みこぼれ」は改良句。前の句よりはマシと思うが。笑みこぼれが月並み。「干柿を三つ食らって憂さ晴らし」としてみた。面白み薄し。

 「柴犬もお供の人も着ぶくれし」と犬に再挑戦。さらに「チビ犬もお供の人も着ぶくれし」に改良。芝犬というのは体毛が少ないのではと思ったのでチビ犬とした。「チビ犬もお付きの人も着ぶくれて」は改良句。より諧謔性を強調してみた。

 「冴え冴えと星の瞬く街はずれ」は兼題の人が入っていない。しかも月並み。冴え冴えは冬の季語だが、押しつけがましい形容詞である。この句は、だからどうしたという類の低レベル。星は冴え冴えと瞬くに決まっているではないかということである。「冴え冴えとせせらぎ永久に丸木橋」ではどうだろうか。前句よりはマシだと思うが、感動性はあまりない。自然描写に過ぎないレベル。なんだか安っぽい風景画みたいだ。

 「人恋し夜ふけて止まぬ寒の雨」は我ながらなかなかではないかと思うが、人恋しという臭い言葉が物欲しげでよくない。こういう月並みな言葉を安易に使ってよしとするところに僕の欠点がある。改良の余地はあるだろうか。「妻放屁夜更けて止まぬ寒の雨」ではどうか。これは諧謔性があると思うが、句会ではともすれば放屁などというお下劣な言葉は嫌われる。僕も品のない句は好きではない。この奇抜な句が入選する可能性は皆無だろう。そこで「歯ぎしりや夜更けて止まぬ寒の雨」とした。人恋しや妻放屁よりはまともではなかろうか。歯ぎしりしているのは横に眠っている妻でもよいし、夫でもよいし、幼子でも老母でもよいのである。自分の歯ぎしりで目が覚めたら雨が続いていたという状況も考えられる。しかし、どうも感興性が乏しい。歯ぎしりという濁音の入った言葉が深更しめやかに降る雨の侘しさを打ち消してしまっている。「酔い覚めや夜更けて止まぬ寒の雨」としてみた。しかし、酔い覚め(よいざめ)とまたも濁音である。「忍ぶ恋夜更けて止まぬ寒の雨」と改良。また濁音が混じったが。恋に始まり恋に戻った寒の雨シリーズであった。

 「山眠る人も林も押し黙り」はどうか。どうも思いつきの句では個性がないが。「山眠る人も梢も黙しおり」と改良した。しかし、黙しおりという表現が説明調である。眠るに黙しではくどい。俳句では過剰な表現はよくないのである。「山眠るあまたの梢従へて」は改良句。だが僕の場合は改悪句になってしまうことが多い。今回は前句よりはましと思うが。しかし兼題が消えてしまった。自由題に変更せざるを得ない。

 「庭枯るるはぐれ雀が枝渡り」は兼題を入れ忘れた。これも自由題の候補。「庭枯るるはぐれ雀が枝揺らし」でははどうだろうか。しかしこれでは当たり前の風景描写ではなかろうか。「庭枯るるはぐれ雀が人を呼び」とした。まだよくない。そこで「庭枯るるはぐれ雀が人を待つ」としたが、これでは意味不明。「庭枯るるはぐれ雀が隠れんぼ」ではどうだろうか。どうも決まらない。庭が枯れたら隠れんぼもできないだろうし。「庭枯るるはぐれ雀も落ち着かず」ではどうか。落ち着かずも説明調ではあるが。共感を強要するようではよくない。「庭枯るるはぐれ雀が地団駄を」とした。さらに「庭枯るるはぐれ雀が歯ぎしりす」と改めた。韻を踏んでみたのである。しかし、決まらない。「庭枯るるはぐれ雀がきりきり舞い」としたが字余りになった。「庭枯るるはぐれ雀がお留守番」とした。これはやや詩情あり。

 「雑炊を最後に掻き込む酔っ払い」も自由題。これはほぼ川柳の世界だ。「雑炊を掻き込めぬほど酔い回り」ではどうか。これでは状況の描写に過ぎず、風雅、諧謔に欠ける。「焼芋を思わず買った帰り道」も自由題。やや川柳調。「焼き芋を買ってしまった帰り道」としたが。いずれにしても個性がない。「湯たんぽを足に挟んで焼けどかな」も自由題。面白みも深みもなし。

 「落葉掻く人のまわりに陽炎が」は季語重なり。落葉は冬で陽炎は春だから滅茶苦茶な句で句会に出したら批判されることは必定。「落葉掻く人の周りに淡き陽が」に改良した。「落葉掻く人を包みし光かな」も改良句。雅趣なし。包みしという表現が説明調。「落葉掻く人のまわりに光差す」と改良した。面白み皆無。「落葉掻く人は小町かお下げ髪」は改良句だが。「落葉掻く人は茶髪の小町かな」とした。これぐらいにしないと個性が出ない。しかし、「落葉掻く人エプロンの小町かな」と改良した。茶髪では奇抜すぎると考えたのだ。さらに「落葉掻く人はエプロン小町かな」と改良。この方が生硬さが薄れていると思う。

 「雪虫に驚く人に見とれたり」は改良の余地があるだろうか。「雪虫に見とれる人の頬蒼し」ではどうか。見とれるという表現が月並みだ。そこで「雪虫を目で追う人の頬蒼し」と再改良した。どうも不満が残る。そこで「雪虫によろける人の頬蒼し」とした。どうもよくない。そこで「雪虫に息吹きかける人の頬」としてみた。やや雅趣があるのではなかろうか。しかし、雪虫に息を吹きかける人がいるだろうか。「雪虫をはげます人の頬蒼し」と改良。どうもよくない。雪虫と頬蒼しで焦点がボケた。「雪虫を見つけた人も頬白し」と改良。この句の方が素直だが、個性はない。誰が作ったか分からないような句ではまずいと思うのだが。気になるのは人もという表現である。俳句は助詞ひとつで印象が変わる。「雪虫を見つけて今日は店じまい」としたら、兼題が消えてしまった。「雪虫を人それぞれに見つけたり」としつこく改良。

 「着ぶくれて吾子は満腹鼻ちょうちん」はヤケクソの句。着ぶくれが冬の季語。鼻ちょうちんでは字余りだ。「着ぶくれし吾子は満腹夢心地」はどうか。どうも面白くない。前句の方がよいのではなかろうか。

 「厚着せり眠気誘う小春風」は小春風が冬の季語である。しかし厚着は『季寄せ』によると冬の季語となっている。季語重なりだった。「昼まだき眠気誘う小春風」と改良してみた。しかし個性がない。とても満足できるレベルではない。ではどうしたらよいのか。「待ち合わせ眠気誘う小春風」としてみた。厚着せりや昼まだきよりは待ち合わせの方がよいと思うが不満足。「待ちぼうけ眠気誘う小春風」と改良。しかし、待ちぼうけの人は苛々して眠気など感じないのではなかろうか。「四つ目垣眠気誘う小春風」ではどうか。「曲がり角眠気誘う小春風」の方がよいような気がする。「散髪や眠気誘う小春風」としてみた。これも不満足。理髪店の中では小春風を感じようがないのではなかろうか。どうも眠気誘うが説明調である。


… 2004年11月4日 … 馬鈴薯や口にとろけるバターかな

 句会が終わった。兼題の「口」はやはり皆さん苦手なようで、秀句はなかった。なかでNさんの「新米や口する前の匂いかな」とKさんの「初さんま黄色き口の集いけり」が2点入り選ばれた。私の句の「馬鈴薯や口にとろけるバターかな」も1点入った。私はNさん、Kさんの句の他、Sさんの「口舌の止まる暇なし毛ガニかな」を選んだ。迷句や単なる風景描写の句が大半で、先生はいささか落胆していたようだった。

 自由題ではKさんの「枯れ枝も雀十羽の実をつけり」とYさんの「秋野原なほそれよりも広き空」が2点入った。その他、Aさんの「蟻踏まずひと日を良きと過ごしけり」とNさんの「初秋刀魚舌が覚えし刺身かな」と私の「骨入れや秋雨のなか震えおり」が1点ずつ入った。ただし先生は私の句について「切字が2つ入っているのはよくない」と批評した。そして「骨入れではなく屑入れの方がよかった」とも講評した。


… 2004年11月3日 … ななかまど紅く燃えたる並木道

 10月の句会が都合により延びて今日11月3日に変わった。それで朝から俳句を作っているのだが、平凡な句ばかりで自分でもつくづく才能がないことを実感する始末であった。兼題の「口」さえもさっぱりである。自由題は1つも考えていない。秋という季節は情感があり俳句にはもってこいの時期なのだが。

 「初雪や真白き世界輝けり」は先日の雪を思い出してとっさに作った句だが、これでは小学生のレベルである。当たり前のことを書いたのでは初雪の感動が伝わらない。「初雪や今年も難儀な時来たり」は北国に住む人の実感だが、やはり平凡。前句よりは少しよいが。

 「ななかまど紅く燃えたる並木道」もななかまどの紅葉を詠んだのだが、単なる風景描写である。「骨入れや秋雨のなか読経せり」は先日の父の骨入れを思い出したもの。「菊の花だけが彩る我家かな」も実感だが。


… 2004年9月30日 … 口閉ざす妻の背中に銀杏散る

 10月の兼題は「口」。難しい兼題である。「紅葉狩雨に祟れり口惜しき」。「干柿をほおばるたびの愉悦かな」。「馬鈴薯を口でとろかす贅沢さ」。「紅葉狩雨模様にて口惜しき」は改良句。「紅葉狩口惜しきかな雨模様」も改良句。「干柿が口に広がる豊穣さ」も改良句。「馬鈴薯や口にとろけるバターかな」も改良句。「干柿や口に広がる幼少期」は迷句。「口閉ざす妻の背中に銀杏散る」は銀杏散るが秋の季語。ここは銀杏ではなく紅葉でもよいのだから難がある。背中に銀杏が散るという表現も大げさだ。「口閉ざす妻の背中に銀杏舞う」ではどうだろうか。しかし、銀杏自体は季語ではない。銀杏舞うも季語ではない。やはり銀杏散るでなければならないのだ。

 「秋寂びて詩を口ずさむ散歩道」も平凡。「口蓋に柿のぬめりが広がりし」もなんだか当たり前のことである。
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